少し前までの私は、「鰻といえば〇〇だよね」と、さも通ぶったような言い方をしていた。
“名のある店で食べるのが一番”と信じて疑わなかったのだ。
老舗の暖簾をくぐり、炭火の香りに包まれながら、
ふっくらとした身に箸を入れる――その特別感こそが、鰻を食べる喜びだと思っていた。
確かに、有名店で食べる鰻は間違いなくおいしい。
皮目の香ばしさ、たれの照り、そして噛んだ瞬間に感じる脂の甘み。
食べている自分まで少し格が上がったような気がして、
「よし、頑張ってよかった」と思わせてくれる。
けれど、つい最近、そんな私の中の“鰻の常識”をくつがえす出来事があった。
それは、あるファミリーレストランでのこと。
仕事帰りに立ち寄った先で、何となくメニューの写真に惹かれて
「うな重セット」を頼んでみたのだ。
期待はしていなかった。
“まあ、それなりに”くらいの気持ちで箸をつけた。
けれど、一口食べて、思わず心の中で「おや?」と声を上げた。
ふっくらとした身に、香ばしい香り。
たれの加減も絶妙で、思わずご飯が進む。
まさかファミレスで、こんなにおいしい鰻が食べられるなんて――。
拍子抜けしたような、うれしいような、少し悔しいような気持ちになった。
「なんだ、わざわざ身構えて高級店に行かなくても食べられるじゃないか」と思った。
それから私は、肩の力を抜いて鰻を楽しむようになった。
“鰻=特別な日”という決まりごとを自分の中で外してみたら、
意外とあちこちに“おいしい鰻”は隠れていた。
休日の昼に、駅ナカの食堂で食べるうな重。
出張の帰り、駅ビルのレストラン街で食べるうな丼。
それぞれに味があり、空気があり、
そしてそれぞれの“今”を感じられる。
先日は、仙台駅の東口にあるお店に入ってみた。
値段はたしか1,800円ほど。
お重のふたを開けると、なぜか錦糸卵が敷かれていて、思わず笑ってしまった。
けれどその黄色がとても鮮やかで、見ているだけでお腹がすく。
ふわっと立ちのぼるたれの香り。
箸を入れると、甘辛い鰻と錦糸卵のやわらかさが混ざり合い、
なんとも言えない幸福感に包まれた。
「坂東太郎」と呼ばれる鰻を初めて食べたときの感動には及ばなかったけれど、
それでも満足感は十分だった。
結局のところ、“鰻”という響きだけで、
すでにお腹も気分も半分は満たされてしまうのかもしれない。
それほどに、鰻という食べものは、日本人にとって特別な響きを持っている。
高級でなくても、形式ばらなくても、
おいしいものはおいしい――それでいいのだ。
そんなことを考えながら、今夜は味噌汁だけで夕食を終えた。
明日は年に一度の健康診断。
前日の夜は20時以降の飲食は禁止、と自分に言い聞かせながら、
湯気の立つ味噌汁を一口飲んで箸を置いた。
時計を見るとまだ19時台。
お腹が空くのは分かっていたけれど、
空腹というのは、なぜこうも人を思索的にするのだろう。
湯を沸かす音や、冷蔵庫の静かなモーター音まで妙に響く。
そのたびに頭の中には、昼間に見かけたうな重の写真がちらつく。
あの照り、あの香り。
「明日、健康診断が終わったら食べたいものを欲望のまま食べよう」――
そんなことを思うと、少しだけ夜の空腹が和らいだ。
おいしいものは、食べている瞬間も幸せだけれど、
「食べたい」と思い出している時間もまた幸福なのだと思う。
今、胃の中は空っぽだけれど、心の中は不思議と満たされている。
高級店で味わう贅沢なひとときもいい。
でも、ファミレスや駅ナカの店で、ふと出会う一皿の鰻。
それを見つけるのは、きっと自分の心の柔らかさ次第だ。
またどこかで、気軽に鰻を食べよう。


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