実家がある秋田を離れて暮らしてから、もうずいぶん長い時間が経った。
気がつけば、四季の移ろいを仙台で感じるようになって久しい。
ただ、心のどこかではいつも「秋田の空」を思い浮かべている自分がいる。
どこまでも広く大きな空、日本海、日本海に沈む夕日。
ふとした瞬間に、記憶の底から立ちのぼってくる。
とはいえ、私はいわゆる“世間一般的な帰省”をずっとしてこなかった。
お盆や正月に家族と顔を合わせるという、ごく自然な習慣。
それが自分にとっては、どこか遠い世界の出来事のようだった。
家族の事情が少し複雑だったこともあり、
帰ることがかえって心の負担になっていた時期もある。
けれど、ここ数年になってようやく、
「お盆だからそろそろ帰ろうかな」と自然に思えるようになった。
大げさかもしれないが、それは自分の中でひとつの“和解”だったのかもしれない。
今ではお盆の帰省が、私にとって小さな恒例行事となっている。
新幹線を降り、乗り換えを重ね、ようやく見慣れた秋田の駅前に立つと、
どこか体の奥がほっとする。
この「ほっとする感じ」を思い出すたび、
あぁ、やっぱり私は秋田の人間なんだなと思う。
食べることが好きな私にとって、帰省は“食の冒険”でもある。
慣れない土地で食事をするのは、少しの緊張と大きな楽しみが入り混じった行為だ。
その土地の名産を味わうことは、まるで土地の記憶に触れるようなもの。
秋田の旅も同じで、移動時間が長くても、私はいつも心が浮き立っている。仙台を出発してから5時間近くかけて帰る道のりも、
それはそれで私にとって“帰る”という儀式の一部になっている。
秋田へ行くと、必ず買ってくるものがいくつかある。
醤油、稲庭うどん、ぎばさ、しょっつる。
ぎばさは冷凍のものを買ってくるため、冷凍庫の中で出番を待つことになる。
いつかいつかと食べるタイミングを待っているうちに、つい“冷凍庫の肥やし”にしてしまうことも。
母の物忘れを心配していた私が、同じ道をたどっていることに笑えないしむしろ呆れる。
とはいえ、その“肥やし”たちが役立つ日が必ずやってくる。
忙しさが続いて買い物にも行けず、
冷蔵庫の中が心もとないとき。
そんな時に、ふと奥の方から発掘されるのだ。
「おお、ぎばさ、いたじゃないか」と。
ぎばさ――。
初めて聞く人には少し不思議な名前かもしれないが、
秋田ではとても身近な海藻だ。
ねばりが強く、色は深い緑。
見た目は少し地味だが、その粘り気と磯の香りは、
一度食べると忘れられない個性を持っている。
ご飯にかけてもよし、味噌汁に入れてもよし、
最近は蕎麦にのせてもおいしい。
ある日のこと、食材が乏しくなっていた冷蔵庫を見ながら、
私は冷凍していたぎばさを思い出した。
さらに、前日に作り置きしていた肉そぼろも少し残っている。
「これ、混ぜたら絶対おいしい」と思い立ったが吉日、早速調理。
茹でた蕎麦に、ぎばさと肉そぼろをのせ、
卵黄をひとつ落として、醤油をほんの少し垂らす。
それだけの簡単な“ぶっかけ蕎麦”が、
想像以上においしかった。
粘りのあるぎばさが全体をやさしくまとめ、
そぼろの甘辛さが良いアクセントになる。
思えば、こうした“食の偶然”は、
冷蔵庫の隅に眠っていた食材から生まれることが多い。
料理の素材が豊富にある時よりも、
限られた中で工夫している時のほうが、
なぜかおいしいものができる。
「これを組み合わせたら、絶対においしい」という
ひらめきの瞬間が訪れるのだ。
秋田駅の構内にある立ち食いそば屋でも、
ぎばさ蕎麦が手軽に味わえる。
秋田へ帰省される方や旅行で訪れる方には、
ぜひ一度味わってみてほしい。
ほんの数百円で、秋田の海の香りを感じられる一杯だ。
秋田に帰ると、時間の流れが少しだけゆっくりになる。
駅前の風景は少しずつ変わっているけれど、
空の広さと風の匂いは、昔と変わらない。
私はそんな秋田の空気を胸いっぱいに吸い込むと、
「また来よう」と思う。
冷凍庫の奥で静かに出番を待つぎばさのように、
帰省もまた、自分の中で“必要なタイミング”が訪れる。
それまでは焦らず、
日々の暮らしの中で小さな発見を重ねていけばいい。
その日が、静かに待ち遠しい。


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