朝炊いたご飯が思いのほか残ってしまうことがある。
そんなとき、私はいつも小さな決断を迫られる。
「冷凍しておくか、それとも今日のうちに使い切るか」。
ラップで包んで冷凍庫へ入れておくのももちろん悪くない。
次に「ごはん足りない!」という日が来たとき、あのストックがどれほど助けになるか、私は何度も経験している。
けれど、たまにはその“残りごはん”を、もう少し特別な形で使ってやりたくなる日もある。
そんな時にまず思い浮かぶのは、おじや。
胃の調子がいまひとつの朝や、前夜に食べすぎて体が少し重い朝に、おじやは本当にやさしい。
鍋に水とだしを入れ、残りごはんを静かにほぐしながら煮る。
ふつふつと小さな泡が立ちはじめたころ、溶き卵を回し入れる。
ふわりと白と黄色が混じり合って、立ちのぼる湯気が顔にあたる。
その瞬間、朝だ・・・と実感する。
おじやのいいところは、食べ終わった後の“軽さ”だ。
胃がほっとして、体の中に温かさが広がる。
何も足さなくても十分に満たされるのだけれど、たまに気まぐれで刻みねぎや梅干しを添える。
そうすると途端に風景が変わる。
味だけでなく、心にもほんの少し彩りが加わるのだ。
一方で、もう少し元気のある日は、残りごはんをチャーハンに変身させる。
冷蔵庫をのぞくと、いつの間にか存在を忘れられかけた野菜たちがいる。
しなしなになりかけたピーマン、少し元気を失ったにんじん、半端に残ったキャベツの葉。
それらを救出して細かく刻み、フライパンを熱する。
バターを少し溶かして卵を流し入れ、軽くスクランブル状にしたら一度皿に移す。
そのあとにごはんと野菜、そしてソーセージを炒める。
火の通り具合を見計らって、最後に卵を戻し入れる。
仕上げに醤油をさっと回しかける瞬間、ふわっと立ち上る香ばしい匂いがたまらない。
あの香りを聞いたら、誰だって少し幸せになるのではないだろうか。
「じゅっ」と音を立てる醤油。
私はいつか、中華鍋を買ったら、憧れの「鍋肌に醤油をサッと…」をやってみたいと密かに思っている。
その日が来たら、火を強めて、香りの立ち方の違いを確かめたい。
料理というのは、味覚だけでなく、音や香りも楽しむものだと最近よく思う。
チャーハンは、ぱらぱらとした仕上がりが理想と言われるけれど、私は家庭のフライパンで作る少ししっとりしたチャーハンも好きだ。
ごはん一粒一粒に油と卵がやさしくまとわりついて、少しもったりしている。
それがなぜか落ち着く。
「家の味」というのは、完成度ではなく、慣れ親しんだ“余白”のようなものなのかもしれない。
そして今の季節――秋の入り口。
ちょうど新米が出回りはじめる頃だ。
炊きたての新米の香りと艶を見てしまうと、もうチャーハンにするのがもったいなく感じてしまう。
ひと粒ひと粒が甘く、噛むたびにうま味が広がる。
「今日はおかずいらないかも」と思ってしまうほど、ごはんだけで満足できる。
とはいえ、いつまでも贅沢はしていられない。
節約を考えてお米を選ぶようになると、自然と“使い切る知恵”が増える。
ごはんをどう生かすか、どんな形で次につなげるか。
おじやも、チャーハンも、そんな生活の中から生まれた“暮らしの知恵”なのだと思う。
残りごはんがあるというだけで、次の日のメニューがひとつ決まる。
それが少しうれしかったりもする。
この頃は朝晩の空気がひんやりしてきた。
そろそろ温かいものが恋しくなる。
おじやに入れる卵の黄色も、湯気の向こうの茶碗も、どこかほっとする。
週末には久しぶりにカレーでも作ろうかと思う。
たくさん作って、次の日はカレーおじやにしてもいい。
そう思うだけで、少しだけ明日が楽しみになる。
「ごはん」は不思議だ。
それそのものはただの食べ物なのに、暮らしの中でいつの間にか“心のよりどころ”になっている。
朝炊いた白いごはんが、夜には違う姿で食卓に並ぶ。
それは、毎日を重ねていく小さな証のような気がする。
残りごはんをどうするか――それはほんの些細な選択だけれど、
そこには、その人の暮らし方や気持ちの余裕が、静かに映っているのかもしれない。
ごはんの行方
おいしい記憶帳

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